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原水爆禁止2015年世界大会‐長崎 〈動く分科会〉ナガサキの被爆遺構・碑めぐり
2015/09/07

原水爆禁止2015年世界大会‐長崎 〈動く分科会〉ナガサキの被爆遺構・碑めぐり 浦上天主堂の庭に並ぶ被爆石像

「長崎の鐘」世界に


 8月7〜9日に開かれた原水爆禁止2015年世界大会‐長崎(前号報道済み)の2日目に行われた「動く分科会」のひとつ、「ナガサキの被爆遺構・碑めぐり」に大阪地連からは本紙・運天編集長が参加。案内役を務めていただいた今泉宏さん(長崎高教組)の解説を抜粋して紹介します。

 長崎原爆の爆心地は長崎駅から北に約3`。一帯の浦上地区は江戸時代、隠れキリシタンの町でした。幕末〜明治初期の弾圧事件「浦上四番崩れ」では信徒3千人以上が流刑に処され、うち600人以上が殉教しました。禁教令が解かれて浦上に帰還した信徒たちは、かつて「踏み絵」が行われた庄屋屋敷の跡地を買い取り小聖堂を築きます。1895年には同地に大聖堂の建設を開始、30年かけて「東洋一」と称される浦上天主堂が完成しますがその20年後、1945年の原爆投下で全壊しました。
 廃墟は58年まで仮保存され、長崎市議会も保存を議決しましたが、当時の長崎市長・田川務は米国セントポール市と日本初の姉妹都市提携(55年)を結んだ後に方針転換して撤去を決定。浦上教会も“キリスト教迫害時代の由緒ある土地”での再建を目指し、59年に現在の天主堂が再建され、廃墟の一部は被爆遺構として平和公園に移築されました。「長崎にとってこれが原爆ドームみたいなもの。これだけしかないのが非常に残念」(今泉さん)。
 浦上天主堂で現在鳴らされている右塔の大鐘は瓦礫の中から無傷で発掘されたものです。被爆年のクリスマスイブには丸太棒を組み合せた仮鐘楼で鳴らされ、被爆者を慰めました。この鐘を「長崎の鐘」と名付けたのが、永井隆(医学博士、1908〜1951)です。

戦争反対の叫び

 島根県出身の永井は1928年に長崎医科大学に入学。下宿した家の先祖は、隠れキリシタンで信者を指導し教会暦を伝承する「帳方」でした。卒業後は放射線医学の治療と研究に従事。34年には洗礼を受け、同家の一人娘と結婚します。
 しかしX線技師として結核治療に励んだ永井は45年6月に被ばくによる白血病と診断され、その2か月後に原爆投下を迎えます。大学病院内で被爆した永井は重傷を負いながらも救護活動に当たりますが、3日目に自宅に戻ると妻の亡骸を発見、埋葬します。翌日からは子どもと義母の疎開先で救護所を開き、被爆者の治療を行いました。
 永井は翌年7月に倒れ、以後死去するまで病床に伏すことになりますが、同時に精力的な執筆活動を開始します。最初に書き上げられた作品が「長崎の鐘」。原爆投下直前から終戦までの長崎の惨状を描いた随筆です。46年8月には脱稿していましたが、医学的な被爆の実相を含んでいたためGHQ(連合国軍総司令部)の検閲にあい、49年1月まで発行できませんした。同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒット、翌年には映画化もされました。
 1948年3月、浦上の人々は焼け残った材木を集めて、永井が療養を行うための二畳一間の小さな家を建てました。その家は「如己(にょこ)愛人(あいじん)(己(おのれ)の如(ごと)く人を愛せよ)」という聖書の言葉から「如己(にょこ)堂(どう)」と名付けられました。
 如己堂の前で今泉さんは、永井が未来に改憲勢力が台頭することを予見し、我が子に向けて「卑怯者とさげすまれ、裏切者とたたかれても、『戦争絶対反対』の叫びを守っておくれ!」と訴えている「いとし子よ」(48年)の一節を紹介。「永井先生の言葉をいまこそ私たちは世界に発信していくべきではないでしょうか。娘や息子たちへのお願いは我々、いま生きている人間すべてにお願いされていること」と強調しました。

被爆像は訴える

 「遺構めぐり」は如己堂から浦上天主堂に移動。聖堂入口脇の「使徒聖ヨハネ」像は鼻や指が欠け、庭に3体並ぶ聖人像も黒く焦げて傷つき、そのうちの1体は頭部と手が失われています。像の前で今泉さんはこう話しました。
 「被爆者は年々高齢化して、被爆の実相を語れる方が少なくなってきています。では我々はどうやってそれを伝えるかを考えると被爆遺構しかなくなっていくわけです。被爆遺構はしゃべりません。けれども我々に何かを語ってくれる、メッセージを伝えてくれるものとしてずっと残っていくと思うんですね。“私の首はどこに行ったんだ”“私の手を返してくれ”、みんながそう訴えているように私には思えてなりません」