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本流逆流(8月25日付コラムより)
2016/08/26

 7月26日未明、相模原事件の第一報のテロップを見た時に、私は2001年の大教大附属池田小事件や08年の秋葉原事件を思い出した。これらは世を呪い自分が死刑になるのを織り込んでの犯行だったが、今回19人が殺されたのは「日本国と世界の為」という。
 「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」「障害者は不幸を作ることしかできません」…容疑者が衆議院議長に宛てた手紙には慄然(りつぜん)とするばかりだが、ネット上には容疑者に共感を寄せるコメントも少なくない。
 報道によると容疑者は通っていた理容室の店員に「(障害者)ひとりにつき税金がこれだけ使われている」「何人殺せばいくら税金が浮く」というようなことを語っていたという。
 “社会の足手まといになる者は殺してもいい”という極論の奥底には“能力の低い者が人なみの生活を要求するのは甘え”“誰でもできる仕事の賃金が低いのは当然”という歪んだ能力主義が潜在する。今回の事件は労働運動とも無関係ではない。
 「限りない悲しみを感じる。殺人は究極の差別だ」─翻訳家・芦原省一氏のツイート(7月26日)を読んで気づいた。戦争とは差別の結果なのだと。人間相手に虐殺は起こらない。先の大戦では日本人は中国人を「チャンコロ」と呼び、米国人は日本人を「黄色いサル」と呼んだ。
 31日に行われた東京都知事選挙では、「朝鮮人を殺せ」と連呼するヘイトデモの首謀者、桜井誠氏が10万以上もの票を獲得した。「殺せ」という人権侵害が言論としてまかり通る世の中には、いずれそれを実行する者が現れるという教訓を今回の事件は示した。
 事件を受けて日本社会は変わるのか。変わらないのか。「犯人は精神異常者」などという切断処理で済ませるようでは未来に待ち受けているのは地獄しかない。